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2007年 12月 21日
友人その六(遊び)からの続き
私に仕事が重なり、スタッフを揃えて事務所を広くしなければならなくなり、事務所移転の候補地をあれこれ探し、漸く良い所が池袋で見つかった。思ったより広い所だったので牧師に、出版社を作りたいのだったら机を置いても良いよと声を掛けると、かなりその気になり真剣に考えてくれ、その事がこちらの意に反して「池袋では駄目だ。青山辺りに探した方がいい」と押し切られ、池袋の契約の判子を押す直前にキャンセルして青山を探したのだった。漸く池袋の半分ほどの広さしか無いが良い所が見つかり、そこへ9月に移ったのだがどうしても机が3つ入らない。入らなければ牧師に悪いと思い、散々苦労した挙句何とか入れる事が出来てホッとした。後は、牧師を待つだけだと、牧師と肩を並べて仕事をするその日を楽しみにしていた。その頃になると、牧師は私にとってかけがえの無い友人の一人となっていた。 私は牧師が花屋として映画に出た事もあったので「何しろ花屋の経験があるんだから、早く花でも持っておいで」とからかうと、そのうち行きますよと言っていたが、1ヶ月経ち2ヶ月が経っても来ないので、私はとうとう痺れを切らし「何をしてるんだ。いい加減にしろ、来ないのならば机は捨ててしまうぞ」と文句の一つでも言ってやろうと電話すると、電話に出ない。拍子抜けしたが、おかしいな~夜の11時頃に自宅に居ないはずは無いのだけれどと思いながら、何かの会合があったのかも知れないと思い、次の日の目を覚ました頃を見計らい朝の11時頃に再度電話をしたが、牧師は出ない。午前中に居ないのは何か変だと思い、これはひょっとすると何かあったのかもしれないと牧師専用の電話じゃなく、今度は家族の電話に掛け直すとお母様が電話に出られて、いきなり「○○は、死んでしまったんですよー、小林さん! もう○○には会えないんですよー」と言われた。ビックリ仰天した私は「うそーーー!」と言うのが精一杯で、何が何だか判らなくなり事務所の所員の手前もあったので、事務所を出たり入ったり繰り替えしていた。 考えられるのは、とにかく三人で飲んでいた編集者に電話して教えて上げないといけないと思いつき、電話する事にした。編集者に牧師が・・・と言葉を発した途端に嗚咽に変わり涙が溢れ出て止まらず、道端にしゃがみ込んでしまい、亡くなったと言う後の言葉がどうしても言えなかった。「どうしたんですか?どうしたんですか!小林さん・・・」と電話口で激しく言う編集者の声が遠くに聞こえて来たが、私はただただ泣いていた。電話で編集者はTVニュースで見たのでもしかすると、と思っていたと語った。その事が何を意味するのか多少不思議だったが、友人の死があまりにも突然の出来事で、その事を把握する事に頭と体が追いつかず、人生の儚さだけをおぼろげながら感じていた。 その日は一旦家に帰ったが、じっとして居られずフラフラと出歩き、気が付いてみるといつものスナックへ向かっていた。酒を飲んでも中々酔わず、歌も歌わずスナックでただひたすらメモ用紙に正円を書いて気分を落ち着かせようとしながら、バーボンのボトルを半分飲んで千鳥足で帰った。 私はいつでもそうなのだが、失ってみて初めてそのものの大きさを認識する自分の愚かさが悔やまれ、あの時こうしておけば良かった、あー言ってやれば良かったと悔やんでは泣いた。 以前、私の尊敬する建築家が亡くなった時、三日間泣き続けた事があり、四日目には泪の一粒も出ないので考えた。私は三日間位しか感情を持続する事ができないのだろうと・・・。 それに比べ今回の牧師の時は、一ヶ月あまりいつも涙ぐんでいた。 亡くなるつい一週間ほど前の夜中に電話が掛かってきて、韓国での詩集の出版が思うように進まないと嘆いていた。私が図面を書きながら話していると、すぐ判るらしく、人の話を聞いていないなと言って普段より早く電話を切ってしまった。 その電話が、最後となった。 牧師を亡くして、クヨクヨした毎日をおくっていると 「何をやってるんだよ、小林さん! しっかりしろよー」と、今でも牧師の励ます声が聞こえてくるが、こちらはこちらで「何をやってるんだ。全く、冗談じゃ無いよ」と、言いたくなる。 今でも、まだ何処かで生きている様な気がして仕方が無いが、先日一周忌を前にお墓参りも済ませた。 この最後の記事を牧師の命日に奉げます。12月21日牧師没す 私にとって牧師は、大きな心の支えであり慰めでありました。 その事に感謝して牧師のご冥福を祈ります。 合掌 小林英治 #
by kobayashieiji0011
| 2007-12-21 01:28
| ある友人の思い出
2007年 12月 04日
その五(牧師の趣味)からの続き
そう言えばこんな事があった。 私の行き付けのスナックに牧師とその怖そうな友人と三人で行った時の話である。そこは主にカラオケスナックで、相手をするホステスは一人も居なかった。牧師にはそれが物足りなかったのかキャバクラには行った事が無いのかと聞くので、いや行った事は無いと言うと「それじゃ、これから池袋へ行こう」と言いだし、そのスナックには30分も居ずに出てしまった。 池袋に着き、呼び込みに誘われるままキャバクラへ入った。店内では入れ替わり立ち代りホステスが席に着くが、私は何を話して良いものか判らず黙って話を聞くだけだった。これからショーが始まりますというのでそちらを見ると、まるで素人女が足を上げて踊っていた。これに興ざめした私は「面白くない。もう出ますよ」と言うと、ちょっと待ってて下さいと言い、牧師は友人と二人掛りでホステスに携帯の番号を教えろと騒いでいた。時間制なのでと言うので45分まで待って店を出た。勘定は6万円だと聞いて私はビックリしたが、牧師が支払った。私はまるでお金をドブに捨てるようなものだと言うと「小林さんに教えようとしたんだ。ここは俺のオゴリだし、払った人にそういう言い方は失礼だろう」と逆に叱られた。 もう一つ、飲み屋の話がある。編集者と三人での会食の時である。銀座で本を書いてるママさんの事がネットに載っていて、そのブログの記事を読んで見ると、どんな女性なのかどうしても会って見たくなったので、その事を牧師に話すと「それじゃ、これから行って見よう」と言い出した。会員制なので一元の客は入れてもらえないと思うよと私が言うと、いやそんな事は絶対無い絶対と言い、電話で交渉して見ると言い電話番号を調べて電話すると、やがて入れてくれるようになったと笑いながら言うので、すぐに居酒屋を出てタクシーを拾って銀座へ向かった。薄暗い店は異様に混雑していて、ここも入れ替わり立ち代りホステスが横についた。牧師はホステスに、小林さんがママさんに会いたがっているのでそう伝えてくれと頼むが、忙しい為か中々来てくれない。再三頼んでみたのだが、一向に来る気配が無い。その事に剛を煮やした牧師は怒り出し「この店は三流以下だと言い、二度と来ない」と言い勘定を払ってエレベーターへ向かった時に、ママさんが大変失礼をしましたと詫びに来たが牧師の高揚した気分は中々収まらず、悪態を付きながら帰ったのだった。 ある日ブログと言うものを始めたのだが、これが結構面白いと言う。 是非見てくれと言うので見てみた。牧師の住まいには数種類の生き物たちが飼われていて、セキセイインコ・メジロのような小鳥・小さなフクロウを二羽・大きなフクロウ・小さな鷹、変わった所ではイグアナ等を飼っていた。そうだ、他にも大き目な水槽の中を怖そうな友人が全く自然に見えるようにあしらえ、その中に、数種類の熱帯魚だろうか?小魚が泳いでいた。中でも特に小さなフクロウを可愛がっていて、夜になると鳥かごから外へ出して部屋の中を飛び回らせて遊んでいた。彼が開設したブログは、その小さなフクロウを題材にしたものであった。ペット類のブログは多い中、小さなフクロウが可愛いいらしく訪問者もコメントも多かった。面白いので小林さんも始めたら良いと夜中に電話があり、私が中々始めないと始めるまで電話攻勢が続くのでシブシブ始める事にした。私の書いたエッセイが面白いので、エッセイのブログにしたら良いと勧められるままに開設した。開設した当日は訪問者が600人を超えて驚愕したが、それほど多くの人が訪問し読んでくれるのだと喜び、感動と勇気を頂いた。今思えば、単に新規記事でアクセス数が増えただけの事で通りすがりの人ばかりだったように思う。やがて、お気に入りのブログ友達も出来、現在まで楽しませて頂いているが、当の牧師はせがまれてオフ会に出席してからだろうか「ブログの世界は、バーチャルだ。現実では無い」と言い、何に失望したのか4ヶ月で中断したまま、二度と再開する事は無かった。 つづく #
by kobayashieiji0011
| 2007-12-04 19:57
| ある友人の思い出
2007年 11月 10日
その四(三人会)からのつづき
牧師の家に遊びに行くと、壁には額に入った絵が飾ってあった。設計の途中の打ち合わせで、ここに絵を飾りたいので壁を窪ませてくれと頼まれたのだったが、その場所に牧師が書いた詩を筆字で書き、廻りにちょっとした絵が書き込まれていたものが飾られていた。それが会田みつおのような感じの物で、なかなか良かった。私が良い感じだと褒めると、私にも何か書いてあげようと一枚の詩が書き込まれた絵を頂いた。話を聞くと、随分若い頃からずーっと詩を書いていたそうであった。見せて上げようと言って最近書いた物を見せてくれた。そこには紛れも無く一匹の迷える子羊がいて、牧師として信仰とは何か如何に信仰するかを真摯に悩み、苦悩した痕跡が赤裸々に綴られていたが、神についてはまるで疑いの無い事のようで自分は神の子となっていた。 ある日、谷川俊太郎の詩集を出している出版社から詩集を出す事になったと言い、喜びの電話が入った。それはすごい事じゃないですかと喜ぶと、これから出版社の人と会うので紹介してあげるから池袋まで出ておいでと誘われ、出掛けて行った。地下の薄暗いお店だったが、いかにも詩人好みの雰囲気が醸し出されていて、すでに真中のテーブルには出版社の方がご夫婦で来られて座っていた。私が詩の話をあまり出来ない為に、私のホームページを見たと言うので、主に建築の話になってしまったように覚えている。その後も何度かお誘いを受けてご一緒し、色んな話を聞く事が出来た。 やがて詩集が出来て来たが、表紙の色が違うと言いとても残念がっていた。何も知らない私は、良く出来ているじゃないか誉め、単純に喜んで「これから沢山売らなければいけないね」と言うと、教会は動かしたくないんだと言った。「良いじゃないか教会で売っても・・。多くの信者さんに読んでもらえば喜んでくれると思うよ」と私が言っても、かたくなに拒絶していた。その後、韓国でも出版する準備を進めていると言っていたが‥。 そう言えば、こんな事もあった。 家が出来た始めの頃、刀を飾りたいので場所を決めて欲しいと電話があり、誰かからもらったのかと聞くと、高い金を払って買ったのだと言う。二本ありその内の一本は江戸時代の頃の刀だと言い、何人かの血を吸っているのだと聞いたと言いながら見せてくれた。 本物の刀を見るのは初めてでは無かったが、触れたもの全て切り裂き命まで奪うと言うその冷たい緊張感には、恐れよりも正直魅惑的にさえ感じられた。こんな物を振り回していた時代があった等と俄かに信じられないが、不思議と手にしてみると心が落ち着き、欲しくなる気持ちを禁じえなかった。刀は地下の牧師室に飾る方が良いと決め、いざ飾ってみるとビシャン仕上のコンクリートの荒さが工芸品としての刀をより際立たせていた。隣にある茶室のような和室4畳の中で見せてくれた牧師の小塚を分解する手付も、ザンバラ髪に着流しの姿と相まって中々様になっていた。私は、気違いに刃物などと言われないように充分注意した方が良いよ等と、冗談を言ってからかったものだった。 最近は、葉巻に凝っている様だった。何にでも凝りだすと数冊の入門書から専門書まで買いあさり、机の上に積み上げて、夜中に音楽を聴きながら読んでいるようだった。「俺も、ようやくシガーの似合う年になったよ」と言いながら、小林さんもやってみたらとタバコを止めて久しい僕に薦めるのだった。 日中はいつもサングラスを掛け、長髪を風になびかせながらハーレー・ダビットソンに乗り、髭を蓄えた顔は思いのほか優しいまなざしを持っていた彼だったが、独自の価値観を持っていて、その価値観に己を律して生きていると言う感じだった。 私が地下の牧師室を訪ねると、雑然としていないか、余分なものを置いていないかといつも気にしていて、設計者としての感想を聞いていたが、ある日私の反対を押し切って地下の中庭に滝を作ってしまい、地下が湿気るよと言っても我関せずで「どうです。良いでしょう?」と言い、滝のせせらぎを聞き入っていた。実際、中々雰囲気があり良かった。地下の中庭に滝がある住宅は、日本広と言えどもあまり例が無いかも知れない。 上の写真の左角に滝を作り、右側へ小さな川が流れているのですが、まだ写真は撮っていません。 悪しからず。この2枚の写真は、牧師のブログより転載しました。 つづく #
by kobayashieiji0011
| 2007-11-10 17:08
| ある友人の思い出
2007年 10月 21日
以前工事中しか見た事が無かった松本市民芸術館を見ようと、訪ねてきました。
丁度、紅葉の真っ盛りで高原都市松本の雰囲気がとても素敵でした。 近くに出来ていた松本市美術館(2002年竣工 設計:宮本忠長)を先に見ました。 エントランス前にあった小さな池が良かったです。 下は設計:伊藤豊雄の松本市民芸術館(2004年竣工)です。 全体を局面で構成してあり、壁面に無数の穴が空けてあるのが内部ではどのように見えるのか 興味深々でしたが、これが中々良かったです。 内部のエントランスからホワイエを見た所です。右側の壁面に無数の穴が見えると思います。 その窓先には、紅葉した樹木が見えてきれいでした。 屋上テラスがあるというので見に行きました。 一面の芝生のグリーンがさわやかで、遠くには北アルプスが見えるのでしょうが、この日は生憎曇っていて見えませんでした。 その屋上に可愛らしい実をつけた樹木があり、良く見ると「まゆみ」と名札が掛けてありました。 初めて見ました。その実を写真にとりましたが、ボケてしまい残念でした。 #
by kobayashieiji0011
| 2007-10-21 20:39
| 私と建築
2007年 10月 14日
その三(発展)からのつづき
囲碁を止めるとしばらく会う事も無くなったが やがてすぐに私と牧師には共通の楽しみがあることが判り、今度は一週間に一度位の頻度で一緒に居るようになった。 あちらこちらへといつも一緒に遊び歩いたのだったが それも2年ほどすると、その楽しみも牧師はあっさり止めてしまった。 牧師は決して飽きっぽいと言うのではなく、意味を見出せないような事を言っていた。 だから、小林さんも止めた方が良いよとしきりに勧めていた。 そんなある日、イレブンPMで牧師館を扱いたいという電話があり、まだイレブンPMを放映していたかなと不思議に思い聞いて見ると、BSチャンネルですと説明してくれた。 牧師に詳しく取材の方法などを説明し、何とか取材させてくれと言う事になり決定した。 取材当日は、本来ならば施主が出演するべき所をどうしても牧師が嫌だとダダをコネ、お陰で白羽の矢がこちらへ飛んできて私が出演する事になったが、緊張のあまり寿命を確実に2・3年は縮めたような気がする。 しかし、まぁ何処から2・3年縮まるのか最終ラインが確定していないので、あまり気にする事も無いとは思っているが・・・。 すると今度はある雑誌社から牧師館を取材させて欲しいと電話があり、取材に応じた事があった。 その取材で知り合った若い編集者と牧師とは話が合い、いつか一緒に飲もうと撮影の日に約束をしている程であったので、余程気が合ったようだ。 それから半年近く経ち、牧師が出版社を立ち上げたいので相談に乗ってくれないかと私の事務所を訪ねて来た時、その事を思い出し、あの時の編集者を呼んで話を聞いてもらったらどうだろうかと勧めると、それは良い考えだと喜び、以後2週間おきに三人で出版社立上げ会議を進める事になった。 3・4ヶ月続けるとそれも牧師の考えていた出版物が他社に出し抜かれ、出版社立ち上げの夢もあえなく消えてしまったが、しかしその後も三人での会合は楽しみの一つだった様で、食事会とカラオケにとってかわり、しばらくの間続いた。 牧師は高倉健が好きで良く唐獅子牡丹を歌い、編集者は吉田拓朗を歌い、私はケイ・ウンスクを歌った。 先ほどの将棋の天才の小池重明の本もそうなのだが、牧師と編集者の読んでいる本はかなりな部分で共通していて、牧師がこの本は面白いと言うと、ほとんどの本を編集者は読んでいたし、この作家が好きだというとほとんどの作家が好きな様で価値観が似通っていた。 牧師の読書量は相当なものであったが、若い編集者はそれ以上の様だった。 書く事が好きで書きたい衝動のまま書いたと言う小説の、応募したほとんどが賞の候補に上ると言う程の物だったが、未だ賞は貰っていないようだ。 私と牧師は、彼が賞を貰うのは時間の問題で、やがては小説家として認められ広く読まれるだろうと噂して、今の内にサインでも貰っていたほうが良いかも知れない等と、その事を楽しみにしていた。 やがて編集者は勤めを辞め、自由が利かなくなり食事会には参加出来なくなった様で、やがて食事会は中止する事になったが、一年近くは続いたような気がする。 その後、牧師とは会う事は少なくなった代わりに、電話だけが夜中に入った。 これがまた、いつも長電話になった。 (つづく) #
by kobayashieiji0011
| 2007-10-14 00:12
| ある友人の思い出
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