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2005年 07月 31日
![]() 以前、知人から薦められ団鬼六著「真剣師 小池重明」を読んだ事がありますが、そこで少しだけ小池重明本人が書いた自叙伝の記述があり、中々素直で何処と無く心を打つ文章だったので是非読んでみたいと思っていました。ようやくその本、やはり団鬼六著「真剣師 小池重明の光と影」が手に入り読んでみると、自叙伝では赤裸々に嘘偽りの無い自己の生い立ちを語ったものの様で、想像通りの中々面白いものでした。自叙伝の他は以前読んだのとさほど変わりませんでしたが、何度読んでもすごい人物が居たもんだと感心させられます。真剣師とは、お金を掛けて勝負するアマの棋士だそうですが、いつもお金に窮乏していた小池重明は、金がかかった勝負は負けたことが無いと言うぐらい強かったようです。 アマ強豪とやっても勝ち、果てはプロとやっても勝つのです。こと将棋に関しては天才的なのですが、お世話になった人のお金を持ち逃げしたり、人妻と駆け落ちすること三回、と性格破綻者のようです。その為かプロへの道も閉ざされ、結局病気になり44歳と言う若さで悲惨な最期を遂げるのでした。私は、将棋に天分がある人は、プロにさせたら良いと思います。彼もそう出来ていたらもっと違った人生が送れたことは間違いないし、そのほうが将棋界の為にもなったのではないかと素人ながらも思わずに居られません。 我々建築の世界では、40歳過ぎて建築を覚えてデビューし、いきなり世界的なトップスターの建築家となった人も居るし、白井晟一なども50歳を過ぎて歴史に残るような建築の設計をしています。建築の世界でも少しずつ変わってきていて、今では建築士の資格を持たない有名な建築家が何人か居ますし、資格で才能が開花する訳ではないので、どんな場合でも、人の持っている才能は伸ばせる方向でありたいものですね。 ▲
by kobayashieiji0011
| 2005-07-31 18:31
| 私の読書
2005年 07月 31日
仲の良い牧師さんから薦められて読んだ本です。天才棋士の話で、賭け事で何千万の借金を作り、あちこちに女を作り果ては子供まで作ったと言った波乱万丈の人生を歩んでいる人のようです。僕が世界の三大建築家の一人と言われる日本でも帝国ホテルの設計者として有名なフランク・ロイド・ライトが、何人もの施主の奥さんと駆け落ちした話をして、彼はずば抜けた天才だと言ったら、似ている人が居ると言って貸してくれた本でした。読んでみると大変面白かったです。
前回も薦められて読んだ将棋の「真剣師 小池重明」も確かに天才で、やはり似たように破天荒な人生を駆け足で歩み夭折した人でしたが、勝負師の天才と建築家の天才は、矢張り大分違うような気がするのでした。建築家はその職業上、基本的には常識人だと思われます。たまに非常識なことをやってもです。たとえば建築家で全財産を競馬や競輪で摩ってしまった人が居るとは、私にはどうしても思えないのです。実際はどうか判りませんが・・・。 ▲
by kobayashieiji0011
| 2005-07-31 18:09
| 私の読書
2005年 07月 26日
![]() 金閣寺が好きで、水上勉の「金閣炎上」を読んでみました。 金閣寺を燃やした男「林養賢」については、ほとんど知らずにいました。独り占めしたくて燃やした、気がふれて燃やした等々、聞きかじりでそんな風に思っていました。当時の新聞や週刊誌などもそのように書かれていたようです。ですが、実際いはだいぶ違っているようですね。大勢の意見には影響されず、自分の目で見た真実を語る人が居るようで感心させられます。当時、金閣寺の庭の修理をしていた造園家の話をちょっと引用してみましょう。「・・・世間知らずの少年の行動は思いがけぬ悲劇にまで発展したが、彼には彼としての筋の通った主張があった。庭園修理中のしばらくの間ではあったが、彼と朝夕を共にした私にには当時に切羽詰った彼の心情が理解できる。・・・文化財を抱えた京都の寺院が『金閣炎上』をただの犯罪として見ないで、少年が法律を犯してまで乱打した仏教界への警鐘を謙虚に受け取ってもらいたい。・・・声の無い少年の抗議に深く心耳を傾け、慙愧し、宗教機関としての面目を取り戻し、道場としての姿勢に立ち戻ることを願うのみである。云々」と書かれたようです。あまり詳しく知らないままに人の悪口や非難する事は簡単ですが、はっきりと自分の目で真実を見ようとする人が居るかと思うと、思わず涙が出てきました。電車の中で読んでいましたので、大変恥ずかしい思いをしましたが・・・。 ▲
by kobayashieiji0011
| 2005-07-26 21:23
| 私の読書
2005年 07月 26日
信州から上京して、かれこれ10年近くになるが、左ハンドルの愛車を捨て専ら動くのには電車を利用している。今思い返すと危ない話だが、私は車を運転しながら考える事が好きだった。いつもは遠出をするとき所員が運転したがる車を、考え事が在る度に「ちょっと替わってくれ」と言って自分で運転していた事を思い出す。そんな習慣も上京と共に消えうせ、まるで考える事を忘れてしまったかのような気分にさせていた。そんなある日、事務所を訪ねてきた友人が読みかけの本を忘れて帰った事がある。私が25年近く前に読んだ司馬遼太郎の「国取り物語」だった。友人が返して欲しいと言うので、小一時間電車で返しに行く道すがら読み返すと面白くなり、返した後すぐ本屋に立ち寄り文庫本を買い求めて読んだ。
30年前私の長男が生まれた時、NHKの大河ドラマで「国取り物語」が放映されていた。確か平幹二郎だったか、演じる斎藤道三のヘヤ-スタイルが生まれたばかりの長男のヘヤ-スタイルと全く同じだった事が快感を呼び読み始めた本だった。長男の出産は難産だった。吸盤で頭を掴んで無理やりこの世に生まれ出て来た長男の頭には、吸盤が付着した所だけ髪の毛が無かった為である。耳の上と襟足の所だけがふさふさとしていて、ほぼ頭の全域が吸盤で覆われていた事を物語っていた。その事が不憫でならず、見る度に悲しい思いをしていたが、「国取り物語」を見る度に道三が生まれたようだと、マムシの道三と言われる人物に親近感を持った事などを思い出しながら読み返していった。歴史小説は読み出すと面白く、道三から現代まで順を追って読んでみようと考え、信長・秀吉・家康と読み進め、幕末の松蔭・竜馬・榎本武楊・西郷さんと続け、日清・日露戦争・山本五十六と読み終えたところである。専ら文庫サイズの司馬遼太郎が多かったが、約500年の歴史を足掛け6年で読んだ事になり、駆け足ながら歴史書だけで80冊を超えた。何れも電車の中だけの読書であったが、車を運転していた時には、読む事の無い小説であったかも知れないし、家に帰るとTVで放映された映画のビデオを2・3本ハシゴして見るのに忙しく、とても本など読んでいる暇は無かったかも知れない。かつて履歴書の趣味欄に読書などとは書いた事が無いが、今では私の読み方は「趣味」としか言い様が無いような気がする。もういくら読んでも血や肉にならず、趣味として楽しく読み、終わったら忘れてしまう。そんな読み方だが竜馬を読んでいる時には、私のそばに竜馬がいつも居るような気がし、死んでしまうと言い様の無い寂しさにとらわれた。松蔭の時も、西郷さんの時も、五十六さんの時も皆同じような気分にさせられたが、思えば日本には随分立派な人が居るし個性的な人が居たものだと感心させられ、自分も負けずに頑張らなければと思いながら、ついつい怠けてしまう。もう心機一転して巻き返しが出来るほど若くは無くなったのが残念だ。 私は昔から好き嫌いがハッキリしていると言うか割と凝り性で、作家も気に入ると全てその人の作品を読まなければ気がすまなくなる。夏目漱石・大江健三郎・高橋和己が好きでほぼ皆読んだ。砕けた所では松本清張や立原正秋あたりを読んだりした。五十歳を過ぎたあたりから、あの癇癪持ちの志賀直哉の短編が好きになり、今ではその弟子の阿川弘之が書いた「志賀直哉」が面白かったので、今は阿川さんの作品を何冊か読んでいるうちに、古本屋の店頭に並んでいた「山本五十六」が目をひき、著者が阿川弘之だったのと自分の年が丁度56才だったので、読み頃かも知れないと思いついつい買ってしまった。実はこの本がとても面白かった。随分丁寧に調査して書いてあるのと、五十六の何気ない一言にも著者の考えが及び、充分考察され読む者を厭きさせず著者の機微や頭の良さが窺い知れて心地良い。海軍物や伝記が多いようだが、人間が好きでたまらず人の事を書いているようで、伝記を書いている人への深い愛情を感じるものだが、五十六さんの遺族からは訴えられたりして、他人と近親者では随分受け取り方が違うのかも知れない。 これから誰を読み、どんな楽しみに接するのか見当もつかない。何れにしても、私にとって電車の中だけでのささやかな楽しみであるが、思えば車を捨てた為に得たこの5・6年の移動時間は、ともするとただ移動するだけに終りかねないものを、歴史上の人物に触れ自分との落差を確認する作業にし得る事が出来た事は、何物にも替えがたい事だと思っている。 ここで格言を一つ。「若者よ、車を捨て、電車に乗ろう」 ▲
by kobayashieiji0011
| 2005-07-26 21:21
| 私の読書
2005年 07月 09日
![]() 2005/06/04(Sat) 19:42:55 家づくりの会「建築家と話そうNo.320 湯河原で仕事をしていた時の話です。尾形光琳の紅白梅図屏風を見ようと、友人と二人で熱海のMOA美術館を訪ねたことがあります。いくつもある展示室を見た後、とある展示室に足を踏み入れた時、何気なく見渡した右手の奥のほうに何故か吸い寄せられるように見た一点を凝視すると、茶碗がひとつ目に付き他には目もくれず近寄ってみると、なんと長次郎の黒楽茶碗がありました。私は長次郎の楽茶碗が大好きで、まさかMOA美術館に長次郎があるとは知らず大変びっくりしたものでしたが、初めて見る「あやめ」と銘打たれた鉄錆色のそれは素晴らしい黒楽茶碗でした。 私は黒楽茶碗が大好きですが、利休が何故、茶室では死のイメージに通じると忌み嫌われる黒を敢えて長次郎に作らせて使ったか長年謎でしたが、ある年私なりに理解できるようになりました。 写真はちょうどそんな時に頼まれた山荘でしたので、黒く塗装した山荘を提案すると、施主からは大反対でしたが息子さんのとても面白いという意見でようやく実現した物です。この施主は、前回の厳島神社で載せた山荘の実物を見て、気に入ったこれと同じもので良いと言い、同じものは創れませんよと言うと、じゃ、その発展系で造ってくれと頼まれた施主でしたので、どこがどう発展系だと言う気持ちが強かったのかも知れません。実際、全く違いますから。 ▲
by kobayashieiji0011
| 2005-07-09 10:48
| エッセイ
2005年 07月 08日
![]() 2005/06/03(Fri) 14:39:41 家づくりの会「建築家と話そうNo.317 こちらは、今日の分です。閑なもので頑張って書き込みました。 私の好きな古建築の中に先日台風でやられた厳島神社があります。そこの海の中に立っている鳥居が圧巻なのは皆さんご存知でしょうが、その鳥居は控え柱という特殊な構造で造られていてその構造を取り入れたのは菊竹さんの設計で素晴らしい物があります。私もその控え柱の構造をモデルに山荘を設計してみようと試みました。銀の峭壁と名づけた小さな山荘で、銀の壁一枚を際立たせ、後は出来るだけ存在感を無くそうと試みたもので、控え柱の構造も表に現れることがなく内に包み隠されていますが、鳥居でくぐる部分が居間として作られています。構造は厳島神社から取り入れながらも外観はどことなく伊勢神宮に似て、クリスチャンで牧師の資格を持つ施主にどうでしょうかと見せると、意外なことにそれでお願いしますと言われるので、日本の神道でもキリスト教でもすべての宗教は建築的には合い通じるところがあるのかも知れないと、実感した次第でした。 写真は、銀の峭壁と名付けた壁を右手に見た居間の写真です。峭壁とは切り立った険しい壁と言うものですが、山荘を見た友人が、自分の背丈より少し高い高々2m位の壁を見て君のはスケールが小さいと言って失笑を買う始末でした。 ▲
by kobayashieiji0011
| 2005-07-08 22:48
| エッセイ
2005年 07月 07日
![]() 2005/06/03(Fri) 13:19:56 家づくりの会「建築家と話そうNo.316」 世阿弥の書いた能楽論集の中に「九位」と題され、九つの段階に演じ方を分けて書いたものがあります。正花風、寵深花風、閑花風、等など、この中で銀のお椀の中に真っ白な雪を入れた趣を閑花風と言い幽玄だと言っています。私はこの閑花風を建築で作ってみたいと挑戦した事があり、信州に作った銀の山荘と題したものがそうですが、それは外壁に張った杉板の上に錆止めの銀ペンキを吹きつけたものです。イメージはそれだけではなく、彫刻家の流政之が作った「流れバチ」のようなものを作りたいと、荒地に日本刀を逆さに突き立てたようなイメージを同時に追ったものです。計画模型の段階で、施主を説得するのは容易じゃないな、これは根競べになるかもしれないと思っていましたが、模型を見せた途端、その模型面白いじゃないかの一声で簡単に決まってしまいました。銀色でどこと無くメカニックな感じに見えるその山荘が、カメラ店を経営している施主のイメージにピッタリだったようでした。 ▲
by kobayashieiji0011
| 2005-07-07 22:21
| エッセイ
2005年 07月 06日
![]() 2005/06/1(Wed) 16:02:32 家づくりの会「建築家と話そうNo.315」 大学生の時、伝統についてのレポートの提出があり、当時私はアバンギャルドな建築が好きで伝統に対しては否定的な考えでした。あらゆる創造的な行為は、如何なる物からも全くの自由でなければならず、とりわけ伝統などという過去の物からの伝承的な行為には囚われるべきではないと言う姿勢でいました。かえって捨てる勇気を人々は持たなければならないと強く言っていましたし、そのように書きました。また書きながら自分の考えを纏めようと、片方には二百年・三百年と言う年月を経て日常の中から育まれ、無駄な物は殺ぎ落とされて一種の結晶のような美しさと重みがある民家等は、我々が設計に一年二年とかけても、とても太刀打ちできるものではないなと言う伝統容認のような事実もあり、そちらのレポートも書きながら考えを纏めていました。やはり軍パイは伝統否定のほうにあり、結局二つのレポートが出来上がり私は伝統否定のほうを提出し、もうひとつの伝統容認の方はまだ書いていない友人に上げましたが、私の成績はCで、友人はAでした。そう言った苦い経験からでしょうか、現在では、限りなく伝統を大切にしたいと考えるようになっています。 写真(撮影:村井修)は、別府の家で竹工芸で有名な地域性を出そうと、天井に割った竹を張り上げています。 ▲
by kobayashieiji0011
| 2005-07-06 23:07
| エッセイ
2005年 07月 05日
2005/05/31(Tue) 15:11:09 家づくりの会「建築家と話そうNo.314」
私のちょっとした伝統論がINAXの建築家に紹介されました。以下に冒頭をコピーしました。他に設計例の写真がありますので、是非御覧下さい。 「日本人として生まれ、日本人として生きていく私たちにとって、育まれた伝統やそこで育った価値観はとても大切な物だと思います。生活様式が畳の和室から板張りの洋間へと移り変わっても、玄関では靴を脱ぎ、食卓では箸を使って食事する事は変わりません。 住まいに何を求め、何を作るかは人それぞれ違いますが、完成した物が住む人の心に響かなければ単なる器にしか過ぎません。 全てのものが欧米化されつつある今、畳や障子が無くとも日本人のこころに響く日本の特色を生かした物が求められているのではないでしょうか。」 以下がアドレスですので御覧下さい。 http://inax.co.jp/architects/kobayashi_e/index.html ▲
by kobayashieiji0011
| 2005-07-05 12:59
| エッセイ
2005年 07月 05日
![]() この連休に、今年85歳になる母が生まれ故郷の天草(熊本県)に連れて行ってくれと言うので30年ぶりに帰ってきました。私が住んでいたのは、4歳位までですので多くの想い出はありませんが、それでも海辺で遊んだ記憶が甦り、棒状の番線でマテ貝を取った事や紫ウニを踏んづけて大泣きした事などを懐かしく思い出しました。 中でも傑作なのは、父と一緒に行った魚釣りが余程面白かったらしく、次の日の雨降るさなか一人で釣に行っていたようです。母がどこに行ったのか心配して探し回ったら近くの溝で、棒の先に糸をつけて垂らし、片手に傘を持ち、しゃがんでじっと魚が釣れるのを待っていたようです。母が吊れたねと聞いたら「うんにゃ、まだ釣れん」と答えたそうです。暗くなるからもう帰ろうと言って竿を上げると先っぽには餌も針も付いてなく「これでは釣れんバイ」と言う母の意味が解らず「釣れるまで帰らん」と言ったそうです。 そんな思い出が建築を創る時も出てくるのでしょうか。私の自宅のタイトルは「荘厳への航路・ファントム達の漂流」とつけたのですが、何となく船のような形だと良く人に言われます。 なかなか見る事が出来ないと言われる、母と見た天草のサンセットの写真を皆さんにもお見せします。 ▲
by kobayashieiji0011
| 2005-07-05 12:45
| エッセイ
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